一始める前に
一切成就祓
極めて汚きも
滞りなければ
穢きはあらじ
内外の玉垣
清し清しと申す
祓いを始める前に、これを唱えます。
この詞が言っているのは、ひとことで言えばこうです。
すべて、そのままでいい。ただし、流れていること。
「極めて汚きも」——汚れの量は問われません。どんな過去でも、どんな失敗でも。
「滞りなければ」——ただ一つ、条件があります。溜め込まないこと。
「穢きはあらじ」——流れてさえいれば、それは穢れではない。
消せ、とは言っていません。無くせ、でもありません。流れていればいい。
だから、どんな状態の人でも、ここから始められます。抱えているものを捨てる必要がない。
そして「清し」と申し上げる。清くしてください、ではありません。清い、と。願いの形をとらない。定めてしまう。
一切成就——一切が成った、と最初に置く。
条件がひとつしかないなら、他に思うことがありません。
だから、この詞を唱えるとき、私の中には何もありません。何かを願ってもいない。何かを念じてもいない。ただ、無です。
定めているのは詞のほうで、私ではない。私がすることは、空になることだけです。
思いを込めれば、込めた分だけ狭くなる。無で唱えるから、全部が入ります。
三百年前の書物に、この考え方が残っていました。私が思いついたことではありません。
伝江戸中期の神道家・伴部安崇(1668–1749)に『一切成就祓抄』がある。安崇はこの詞を、倭姫命の神宣であり伊勢両宮伝来の太諄辞(ふとのりと)と説く。ただし記紀や延喜式など古代の文献に確認されるものではなく、中世から近世の実践神道のなかで伝えられてきたものと見るのが妥当。元文五年(1740)の写本が筑波大学附属図書館に伝わる。
二その最中に
還りの言
この詞は
ここには記しません
穢れがあってもいい。むしろ、あっていい。
祓いは、汚れた自分を責める技術ではありません。数を往って、数を還る。それだけです。
戻ったところが、ゼロ。
けれど、ゼロは終点ではありません。振り子が下がりきった場所で止まらないのと同じです。
深く沈んでいた分だけ、反対側へ振れる。
だから、抱えていたものが重かった人ほど、遠くへ行けます。消してから始めるのではない。通り抜けて、そのまま望む地点へ向かう。
この言には、意味のある語が一つもありません。数だけです。
願いを唱えれば、その願いの狭さに引き止められる。何も言わないから、いちばん遠くまで届きます。
一切成就祓は江戸の版本に、布瑠の言は『先代旧事本紀』に載っています。けれどこの言は、書物ではなく人から人へ伝えられてきました。私も、そのようにして受け取りました。
同じようにしか、渡せません。
太祝詞について
大祓詞に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」という一節があります。そこで何を唱えるのか——その中身は、書かれていません。
- 賀茂真淵と本居宣長は、大祓詞そのものを指すと考えました。
- 平田篤胤は、伊邪那岐命が阿波岐原で禊をした際の詞だとしました。
- 鈴木重胤や白川流には、「トホカミエミタメ」の八言とする伝があります。
- そして学術の主流は、隠された秘詞など存在しないという立場です。
千二百年、決着していません。
私が伝えられたものが正解だと申し上げるつもりはありません。ただ、私はそれを使っています。
三終わりに
布瑠の言
ひふみ よ いむなや ここのたり
ふるべ ゆらゆらと ふるべ
祓いは、引き算です。けれど、引き終えたあとに、何もしないわけではありません。
止まっていたものを、動かす。それがこの言の役目です。
石上神宮に伝わる鎮魂——「魂振り」の詞。鎮魂とは、鎮めることではありません。振り起こすことです。
一から十まで数え、あとは「振れ、揺らゆらと振れ」と告げるだけ。願いも、望みも、注文も、ひとつも入っていません。
何も指定しないから、最適解のほうへ動きます。
ここで願いを唱えてしまえば、その願いの狭さに縛られる。空であることが、この言の力です。
終わったと思われていたものが、もう一度動き出す。そういう詞として、私は使っています。
この言は、祓い切った後に唱えます。
では「祓い切った」とは、どうすればわかるのか。
それが、この術のいちばん難しいところです。
伝『先代旧事本紀』天孫本紀。饒速日命が天降りの際に授かった十種神宝に付された呪言とされ、石上神宮の鎮魂祭に伝わる。同書は平安初期の成立で、序文の記述などから偽書とされる部分を含むが、物部氏の古伝を伝えるものと評価されている。
詞は、書物にあるものだけを記します。
使い方は、記しません。